幸福とは

幸福な人生とはなんだろうか?

そもそも幸福とはなんだろう?

幸福は砂漠の蜃気楼のように、近づいたと思ったら逃げられる。

こんな焦らされ続けるのが幸福なのだろうか。

幸福として挙げられているものに、お金持ちになりたい、名声が欲しい、かわいいお嫁さんが欲しい、長生きしたいなどがある。

なぜお金持ちになりたいのか?

良い暮らし?良い車?良い結婚?良い子供?

それは本当に自分が欲しいものなのだろうか?

それを手に入れたら、幸せになれるのだろうか?それならこれまでに手に入れたものはどうだっただろう?

手に入った直後は幸福なような気がしたが、新しいものが欲しくなったのではないだろうか?

 

なぜ名声がほしいのか?

自分以外の他人に、それも全く知りもしない他人に褒められて嬉しいだろうか?

そもそも自分が人を褒めるとき、自分は、どう思っているだろうか?

そんなたかだか言葉のために、なぜ自分を犠牲にしてやらなくてはならないのだろうか?

 

かわいいお嫁さんがほしいのだろうか?

それにしたってモテるためには、おしゃれな服を着たり、やりたくない仕事をしなくてはいけない。心にも思っていないことを言って、相手の歓心を買わなくてはいけない。やっと結婚したと思ったら、よりたくさん働いて自分の自由を捨てなくてはいけない。そして何よりも性格が合わず、結婚してから相手の知らなかった性格を知ることにもなる。幻滅と失望がつきまとう。

 

では最後に長生きだろうか?

一見、欲のない素晴らしい生活に思える。だが、ただダラダラと『死んでいない』という生き方は生きていると言えるのだろうか。健康でということがあるが、健康でいられるかどうかは自分ではどうしようもないことがある。それなら健康ではなかったら幸せになれなくなるのだろうか?

 

私たちはなぜこれほどまでに、苦しく生きねばならぬのだろう?

何かを手に入れなければ、幸福になれないとしたら、わざわざなんで私達は常に「欲しい、欲しい」と言って不幸にならうとするのだろうか?

不幸にしているのは手にれられないことではなく、それを手に入れなければ不幸になるという自分の心ではないだろうか?

 

より良く生きるのは難しい。

 

 

 

 

 

良い人は報われて、悪い人にはバチが当たる?

よく良いことをやったら幸運となり、悪いことをやったら罰が当たる。

と言うように言う人がいます 。

しかしこの考え方は危険なのではないでしょうか。

このを逆に言えば、幸運な人は良いことをやっているからであり、 逆に不幸な人は悪いことを陰でやっているからだということになってしまいます。

これでは不幸な人は悪いことをやっていると誤解されてしまいます。

 もちろんそのようなことは ありません 。

良いことを行っているからといって幸運に恵まれるということではなく、悪いことをやってるからとやってるからと言って不幸になるわけでもありません。

 

良いことを 行なっていても、不幸がやってくることもあります。

悪いことを行っている人も幸運に恵まれることもあります。

だから、人間のものさしで良いことをやっている人は良いことが帰ってくるとか、悪いことをやっている人は不幸になるといった考えをもつのはやめたほうが良いのではないでしょう。

 

そもそも、運に対して、人間があれこれ説明できるほど人間は賢いのでしょうか。

死人に口なし効果について

よく成功者の方法として楽天的であることや果敢に挑戦することなどが挙げられる 。

しかしながら、これらの特性を満たしていたからといって必ず成功者になれるということではない。

確かに成功者の多くは楽天家であったり果敢に挑戦する勇気を持っていたりすることもある。

しかし、逆に失敗した人間の特徴を見ても、同じように楽天的で果敢に挑戦するといった性質の人間も存在する。

つまり性格の上で成功したというわけではなく、逆に成功したからこそ、その理由として性格があげられるのではないか 。

つまり成功者の言う話の言う通りやっていれば成功するといった考え方はそもそも間違っており、成功者の言う通りやっても失敗する人間はいるのである 。

しかしながら失敗者は表には出てこない、 成功者のみ表に出る。

従って失敗した人間は顧みられないことで 成功者の法則なるものが存在するように錯覚してしまう。

そのため成功の法則とかいうハウツー本を気をつけて読まなくてはならない。

判断を差し控えることについて

あり得ないと思われる、考えに出会ったとき、考えを差し控えることが有効なことがある。

自分が必ず正しく、相手が間違っていると頑なに信じることは、視野を狭める可能性がある。

一貫性というのは、美徳であると言われるが、それ以外の選択肢を思い浮かばないという想像力の欠如ともとらえられる。

少なくとも判断を保留にすることによって、意見を取り入れる余地が生まれる。

人間の知識は完璧なことはあり得ない。

少なくとも、意見に賛成できないにしろ意見を保留して白黒判断つけないことが大切なのではないか。

自分がなんでも知っていると思い込むのは傲慢の証拠であるし、これ以上学ぼうという意欲をなくしてしまう。

判断を差し控えることは、視野を広げ、学びを深める上で重要なスタンスではないだろうか。

生き物

生き物はストレスによって強くなる。

このストレスは、満員電車や嫌な人間関係のようなジクジクとしたものではない。

重い荷物を持ったり(長時間ではない)、あえてクーラを使わずに体温調節をしたり(もちろん長時間ではない)することによって鍛えられるのではないか。

身体は使わないと鈍るものである。

江戸時代の医師、貝原益軒は子供は飢えさせて育てよ、震えさせて育てよと述べている。

 

適度なストレスを味方にすることが大事なのではないか。

馬の大きさ

明治時代になり、西洋から馬が輸入されるまで、馬といえばポニーくらいの大きさでした。

それより前に生まれていた人は、馬といえばポニーくらいのものという常識があったのではないでしょうか。

そのような人々に、西洋の馬大きさのことを説明したとしても無駄に終わってしまったのではないでしょうか。

「そのような大きな馬は存在しない。嘘だ。」というように

 

このように人間には自分が見た最大の物を、最も大きいものだと思い込む傾向があるように思えます。

 

今回の新型コロナウイルスにしても、その基準は1918年のスペイン風邪を基準にしているように思われます。

私たちは、このスペイン風邪の被害から考えて新型コロナウイルスの被害を予測しようとします。

しかしスペイン風邪がこれまでに大きな被害をもたらしたからと言って、新型コロナウイルスがこれを上回らないとも限りません。もし、過去の最大値を予想の基準として使用すると、その予想が上回ったとき予想外となってしまうのではないでしょうか。

 

だから目に見えているものを、これまで見た中で一番大きな物を基準にして考える危険ではないでしょうか。

 

過去の最大の物が発見される前は、別のものが最大であったはずですので。

 

破壊と創造について

堅牢なシステムは、これまでの現状にうまく適応してきたシステムだと思います。

しかし長く持つシステムを作るためには、外からの衝撃を力に変えることが重要なのではないでしょうか。

一般的に破壊は悪い意味で使われています。

確かに、大きな破壊はシステム根本を揺るがすものとなり致命的です。

しかし、小ささ破壊は創造をもたらすのではないでしょうか。

「必要は発明の母」とも言います。小さな危機によって学べることは大きいのではないでしょうか。

純粋培養的に同じことを繰り返していれば、いつか大きな危機が来たとき、どうしたらよいかわからなくなってしまうかもしれません。

本番が練習よりもよくできることは、少ないです。

小さな危機を乗り越えていくうちに、大きな危機にも対処できるようになるのではないでしょうか。